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ヨコハマメリーとオダギリジョー
「嫌われ松子」について書いたら、その前に見た「ヨコハマメリー」についても書きたくなった。

これは、戦後米兵相手のパンパン〈売春婦)をしていた女の話だ。
白いドレス、白い帽子、白い顔。まるで舞台から抜け出したような異様な風体で、横浜の街角に立ち続けたメリー。

将校しか客に取らなかった。好きだった男がいつかは自分のところに」帰ってくるかもしれない・・・と思って港町を離れなかった。あまりにもブットンデたんで、「彼女は皇族出身だ」という噂が流れた。いつもその前に立たせてもらってるからと、何件かのお店に義理堅くお歳暮を配った。しばしばコンサートを聴きに行った。そんな「わが道を行く」娼婦だったメリーさん。

でも、寄る年波には勝てない。ビルの廊下に置かせて貰った、小さなイスの上で毎晩寝る生活に終止符を打って、彼女は故郷に旅立つ。白塗りの、暗黒舞踊団のような顔のまま汽車に乗って・・・。

他人の思惑・視線をものともせず、娼婦として行き抜いた。
タブン、自分自身であること、そのことだけにこだわりつつ・・・・。

そう、ある意味では松子もそうね。
「ダメだよ、あんな男と一緒に暮らしちゃ、今に身包みはがれるよ」と、親友から言われても、
「いいの、私は、これで」
と言い切った松子。彼女も、自分を生きたiいように生きたような・・・。

じゃどこが違うの?松子とメリー。

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話は一転。
俳優のオダギリジョーはかって、「自分にしか興味が無い」と言い放った。
そういう点では、彼、サッカーの中田と同種の人間じゃない?

この2人は自分にしか興味がないんだから、当然、己をよく知っている。
彼らを見てるとね、知性ってお勉強から得るものじゃない、
己を通して「世界」を獲得していくことではないか、と。そんな気がしてくる。

己を知っているとは、己の輝き・可能性を知っているということであり、卑小さ、ゴーマンさ、ずるさ、情けなさ、弱さエトセトラを知っているという事だ。
彼らは、その全てを自分に引き受けて、いわばその時々の全力で、立っている・・・ように、私には見える。

全力で立っているといっても、力をこめて踏ん張ってるってことじゃない。
そんな立ち方じゃ1週間ともたないよ。
他人の目(それは往々にしてメディアの目なんだけど)が全く気にならない人間なんていない。私たちは誰もが、他人の目に自分を写しながら生きている。

でも、どんなことがあっても自分を手放したくない者は、イロイロ悩むが結局は、「他からどのように見られようと、自分はこれでいい」と思う。
繰り返し己に聞いてみて、そしてたどり着く結論はいつも同じ。
損得もときに大事。しかし損得に売り渡さない、これだけはどんなことがあっても売り渡さないという自分をしっかりと持っている。
そういう自分への信頼。それがあるから彼らは、余分な力を抜くことができるのだ。

球を操りながら、チームメイトと語り合いながら、時折中田が見せる笑顔は極上。気持ちよくゆるんで生きてる人のそれである。
オダギリジョーにも、似たようないいゆるみを感じるわ。

自分はこのように生きたい。という気持ちが常にハッキリしている。
他人のことはともかく、自分のことはよーくわかってる。
心も体も一つで生きてる。体が固く緊張してるのに、顔は笑っている・・・という事が少ない人たち。
だから彼らは心身のボスとして、その気になればピッチで全力、スクリーンで全力の人になれる・・・・のではなかろーか。ゆるんでいるから、高くも飛べる。

でね、そんな自分を絶対手放さないで立っている者にとって、他人から(主にメディアと、それを鵜呑みにする人々)からしたり顔でアレコレ言われるほど、うっとおしいことはない。ない筈よ。

中田が時々見せる、表面がツルリと固い石のような表情。またオダギリジョーの、よく似合ってはいるが奇妙奇天烈なヘァースタイル。あれらは、自らが定めた線(ライン)の内側に、容易には他者(ひと)を入れたくないという思いの現れ。つまり、ディフェンス(防衛)としてのそれ・・・・・なのではないか。わが身を侵蝕されないための。

メディアを通じて富・名声を得るという事は、一方においてメディアの描くわかりやすい存在へと貶(おとし)められるということであり、そのことを甘受しなければならないということだ。
そういったことへの抵抗が、あの固い表情であり、極めて変わったヘァースタイルなのではないか・・・と、思うのね。

コイツからは何も聞き出せないとあきらめてもらう。又はどこにホンネがあるのかわからないような、トンでる人間として振舞う。そうすることで、自己の柔らかい部分を守るとともに、メディアをうまくコントロールする。すなわち自己を希少価値化させる。

本当のところはわからない。でも結果としてはそうなってるよね。
2人ともメディアをうまく利用している。
そういう彼らを、いやらしいヤツラだとは思わない。
だって、彼らはホントに特別な強さや感性・誇りを持っている人達だもの。

そう、彼らは、ないモノをあるように見せようとしているのではなく、ただあるモノをあるものとして表現したいだけのよ。彼らの態度、風体はそのための戦略であり、戦術だ。

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渋谷の雑踏を一人で歩いている時(実は今日も歩いていたのだけれど)、自分が徐々に固く無表情になっていくことに気づく。
あの町はひたすら奪っていく町だからね。なにを奪っていくのか。精気や思考?
何かはわからないが、奪われてるってことはわかる。
そのことを意識で察知するというより、からだで察知してるのね、それで歩いていると、顔や体の表面が固くなってくるのよ、たぶん。

奪われたくないから、顔やからだを固くさせて、その固さで侵入してくるモノを弾(はじ)いているんじゃないかしら。
そんな風に思った。そしてそのことと、中田の固さが、どこかでつながってるような気がした。

そこへ行くと、オダギリジョーは、「ヨコハマメリー」の系統?だね。
真っ白しろの顔と、奇妙なヘヤースタイル。両者とも、いってみれば訳わからない人だ。つまりは異邦人。
そう、自己を異邦人化させることで、彼らは自分に対する安易な解釈を拒絶している。

ホント、メリーさんなんて万一遭遇したら、「な、なんなんだ、この人は!」という言葉しか出てこなくなくなるような凄さよ。
この世の者とは思えない。神と気狂い、聖と俗の体現者。もう娼婦であるなんてことはどーでもよくなっちゃうような・・・・そんな凄さだ。

自分以外の何者にもなりたくない。誰から侵されたくない。他者のどのような解釈も拒絶する・・・・。
one of themの、目鼻立ちのハッキリしない、他人(ひと)がどう思うかということが最も重要事項の人生を生きるくらいなら、異邦人としての孤独を選ぶ。
と、これがメリーとジョー(and中田)のスタンスだと、私は勝手に思っていて、この強さ・誇りが松子さんにはなく、ヨコハマメリーにはあったっていいたいわけです。。

自分を必要としてくれる存在無しには生きていかれなかった松子。彼女を求めるまなざしや、抱きしめてくれる腕、そして殴られる痛みの中にしか存在できなかった松子。自分を哀れむ気持ち
に蝕まれて、ひたすら食べる世界に逃避して、ついにはブクブクと肥え太り、精神を病んでしまった松子。

それに比べりゃ、メリーさんは終わりよければ総てよし・・・って人生だ。
ふるさとの老人ホームで暮らす素っぴんの彼女は、唇に絶えず笑みを浮かべた、お肌ツルツルの童女のような人(この人、こういう顔だったのか)。娼婦だったなんてウソみたい。

主婦だろーと、学者だろーと、尼さんだろーと、キャリァウーマンだろーと、フェミニストだろーと、作家だろーと娼婦だろーと、卑しいヤツは卑しい、気高いヤツは気高い。
という、真実という名のパンドラの箱が空いちゃうのね、映画「ヨコハマメリー」を見ると。
それで、見終わったあとは、アタマ真っ白。スグには言葉が出てきません。

あなたっていい人ね、デモただそれだけ・・・という「わかりやすい人」として、他者の評価をアテにして生きるのか、自分で自分を良しと思う、そんな気持ちを最後まで手放さずに生きるのか。

松子やメリー、中田やジョーのように、そのどちらかの人間として徹底して生きる・・・なんてとてもできない。
としても、自分はどちらの人間として生きたいのか、という問いは残るよね。やぁ、考えちゃう。

それにしてもメリーさんは、なぜ、どうして娼婦になったんだろう。
職場がヨコハマの石田さんは、実際にむかしヨコハマメリーに会ったことがあるんだって。いいなぁ。

今週は、オダギリジョーの最新映画「ゆれる」を見に行こうと、思っています。
映画館で年間60本以上は見る。もちろん家でも見るから、全部で100本近く見てる勘定。
でも、体調によっては見ながら寝ちゃうのよね。それがこの頃の悩み。
これが年をとるってこと?自覚できる唯一の加齢現象・・・ナァーンチャツテ。

「こんなに面白いドラマなのに、なんでおかーさんは居眠りするんだろう」って、むかし不思議に思ったけれど、今は自分がそうなってる。

























by 008yama | 2006-07-09 23:54


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